あったかみそすーぷ

取り留めのない日常のあれこれ

青い春

私もとうとうコロナウィルスに感染したかもしれない。
6月末、仕事中に明らかに身体がおかしいと感じ検温したら38.8℃だった。その翌朝、ふらついた身体で近くの病院を何軒か回ったがどこも発熱の患者は受け入れ拒否の体制だったので受診は諦めた。何のための病院だよ、と苛立ちながら仕方なく薬局でコロナの検査キットを買った。鼻に突っ込んで検体を採取するタイプのやつで中々きつかった。キットが示したのは陽性反応。職場に連絡して、4日間の休暇を急遽とることになった。
小学生の頃は風邪引いて学校休めるとちょっと嬉しかったが、今勤めている会社は欠勤する事でそのしわ寄せが後から来るので何ひとつ良いことがない。お金も諸々掛かるし。これだから風邪は嫌なんだ。

医師に診断されたわけではないけれど、専用の検査キットがそれなりの反応を示すからには十中八九コロナに罹ったんじゃないだろうか。発熱、頭痛、倦怠感、扁桃炎、咳を発症したが多分インフルエンザとかそういうのと近いんじゃないかと思う。過去にインフルエンザと診断された事がないので比較できないけれども。今回のも100%コロナと断言できないし。体感的にはキツめの風邪という感じだった。

寝れる時にはとにかく寝まくった。寝苦しい時は起きてネット見たりゲームしたり映画を観たりした。衣食住をベッドの上で完結させた。そこから立ち上がるのはトイレかシャワーに行く時だけだ。
映画は何本か観た。窪塚洋介が出てる映画が観たかったので『GO』を最初に流した。割りと好きな映画だった。この作品がモチーフのMr.Childrenyouthful days』の聴こえ方もまた変わってきそうだ。『youthful days』はミスチルの中でも、かなり爽やかな風を吹かせつつもそこはかとなくどろっとした狂気も帯びている。そのバランスがうまくとれていてダントツで好きな曲だ。
その後観たのは松田龍平主演『青い春』。オープニングは退廃的な校舎の屋上、危険な遊びをする学ランの不良たち。そこにミッシェルガンエレファント・アベフトシの切り裂くようなギターリフ。初っ端から最後まで胸ぐら掴まれるような作品だった。これは自分には刺さった。
若い頃の松田龍平はミステリアス漂う美少年でそれも良かった。『GO』『青い春』2作に共通して出演していた若き新井浩文の演技がいいなと思った。現在は色々あって引退したけれど。
この温度を引きずったままシューゲイザーな音楽を聴いて眠ろうと試みた。多幸感と扁桃炎の痛みによる不快感で頭がどうにかなりそうだった。今日からとりあえず仕事に復帰しています。つば飲み込むと痛い。

毒虫

YouTubeを漁っていたら、フランツ・カフカの小説『変身』についての考察動画がおすすめ欄にふと流れてきた。『変身』の文庫本は持っているけれど、序盤まで読んだきり放置していたので、一から読み直すことにした。大体100ページくらいなので、読み終えるのに時間は掛からなかった。

ざっくり説明する。営業マンのグレゴール・ザムザはある朝目を覚ますと巨大な毒虫に変身してしまい、家族から見放されてしまう。一家の暮らしを支えていたグレゴールはそれまで信頼されていた家族から腫れ物扱いされ、やがて自分が存在しない事が家族の為だと考える。その後グレゴールが死んだ事で家族は希望を見出し、新たな人生を歩み始める。というお話である。
個人的に、毒虫のことを勝手にムカデのような物を想像していたが、調べてみるとダンゴムシやカナブンをミックスしたような生き物がイメージとしては近いらしい。何にせよこの作品における毒虫とは抽象的なものなので、好きに想像しても構わないだろう。

読みながらこんな実話を思い出した。植物人間になった男性に起きた奇跡
https://karapaia.com/archives/52319776.html#entry

これも要約するとこんな話だ。

それまで不自由無く健康だったマーティン少年は、病により植物状態になってしまう。数年後に意識を取り戻すが、身体が動かせずその事を誰にも気付いてもらえなかった。視界ははっきり見えているし、周囲の音も聴こえているので外部の情報は受け取れるが、身動きが取れない彼には、周りに自分の意思を伝える手段がない。
彼には献身的に支えてくれる家族がいたが、介護に疲れ切った母親から「あなたなんか死んでくれたらいいのに」と言われることもあった。
考えただけでも発狂しそうだが、それでも彼は正気を保つためにただじっと景色を見つめたり妄想に耽けたりしながら10年近く過ごした。
それから有識者の協力によって徐々に身体が動かせるようになり、自力で車椅子を使えるまで回復した。マーティンさんは今ではエンジニアとして活躍し、家庭も築いて幸せに暮らしているそうだ。良かった。
つまり、マーティンさんもある日突然『変身』してしまった。地獄の日々を耐え抜き、そして奇跡的に復活の『変身』を遂げ、生還した。

『変身』はフランツ・カフカの自伝とも云われている。
実業家の父から跡継ぎとして期待されていたカフカだが、どうしても文学の道を捨て切れない彼は、小説家という“毒虫“に『変身』し、ついに父から認められる事はなかった。
みんなも、そういう経験ならどちらの立場もあるのではないだろうか。
私(自己)がやりたいことをやる→あなた(他者)にとって都合が悪いので毒虫として見られる
あなた(他者)へ対する期待が裏切られる→あなた(他者)のことが途端に毒虫に見えてくる
こんな感じだ。
共通認識で言うなら例えば芸能人の不倫なんかだろうか。人気だった俳優が不倫し世間から干される、というよくある流れだ。

『変身』の物語後半では、家族の方にスポットを当てている。自分達にとって大黒柱である存在が社会的な地位を失った為に、今後の生活を立て直そうと父母娘の三人はそれぞれの仕事を始める。疎ましい存在だった息子は衰弱の末に息絶え、三人は喪失感を覚えながらも安堵する。
私は、この家族が悪だとは思わない。彼らも同じ人間で、苦悩を抱えながら生きている。他者に対して嫌悪する事だって正常な心の働きだ。
こうして家族側の視点も描かれているように、カフカは広い視野で物事を客観的に見ている。
先ほど不倫の話をしたが、不倫とは世間一般に悪である。しかし、実は当事者の間では、被害者のはずの不倫される方が私生活において不倫側から見て元々毒虫であった為に、結果的に不倫をするという行為に至ったのかもしれない。不倫行為を庇っているという意味ではないので誤解はしないで頂きたい。
当事者以外の想像力の欠如した外野がSNSで叩きまくってるのを見ても「でも君たち他人じゃん、本当の事は分からないのに」とただ思う。メディアの思うツボである。本人達の間で起きたトラブルのけじめをどう取るのかは、本人達の間で済ませればいいことだ。

私自身が身の回りの人間関係や、社会的存在における毒虫に『変身』した時、私は私の意思を持ち続けることが出来るだろうか。
大切な人が毒虫に『変身』してしまったとしても、その人を侮蔑せず心から信じていられるだろうか。若しくは、厳しく罰するような態度で向き合えるだろうか。
どうしても解決の方向に向かおうとはするが、それを放棄したがるのも人の心である。

いや、そもそも、すでに私は誰かにとって毒虫なのかもしれない。これを見ている誰かもまた、例外ではない。

ドットは故郷

一昨日の夕方に書いた日記はさっぱり消えていた。書き途中のを保存しないまま眠ってしまったのだ。同じ物を書けと言われれば似たものを書くことは出来る気はするが、面倒なのでやはりやめた。少し勿体無い。

最近本を読み始めて、何かしらの情報をインプットしている。ただ無闇矢鱈にインプットばかりしてアウトプットをしないと語彙は身に付かないと思ったので、日記を書き留めるというのをやってみることにした。わざわざWEB上で公開するのは他者から見られているという意識を持つ意図の為である。その時思ったこと感じたことを純度高めにだらだらと書いているだけなので、本当にただの日記である。私としては読者の存在を想定せずに書くので、お読みになる方がいらっしゃるなら暇つぶしとして消費して頂きたい。

さて今日だが、大変不規則な一日であった。本を読んでは睡魔がやってきて寝て、起きたら本を読んでまた寝てというのを何度かやった。ここ数年、読書という行為をゲームやネットサーフィンに置き換えて休日は専らこんな生活である。特別やりたい事がないのだ。例えば友人から誘いが来ても気力が湧かない。関係自体は良好のはずである。会うまでの過程が面倒なのだ。そうして非活動的な休日を過ごす。虚無がやってくる。ああ私はこうして終わりに向かうのだろうか。まあこんなことは、よくあるやつだ。

一日中酒をちびちびやっていたが、今日は酔っていない。アルコールは本来人体に毒であるが、身体が拒絶しなくなってきているのを感じると私もいよいよ麻痺してきたんじゃないかと思えてきた。先週から毎日飲み続けている。別に酒が飲めるのに憧れているわけではない。美味しいから飲んでいるわけでもない。寧ろ酒は嫌いな方だ。ソーシャルゲームみたいに、何となく、始めてやっているだけである(ソシャゲに関しては性癖に訴えてくるキャラクターがいるか否かで始めたりはする)。このまま続けてアルコールに対する反応が鈍くなってきたら、今より度数の高い酒を買ってみようか、なんて事を思った。ちなみにいま飲んでいるのはアルコール度数3%の酒だ。私はかなりの下戸なのだ。

夕方くらいに何となしにゲーム機の電源を入れた。フレンド一覧を覗くと友人がポケットモンスターをプレイしていたので連絡しかけたが、ちょっと考えてやっぱり止めた。一緒に喋りながらやっても段々やる事話す事が無くなってきてどうでもよくなってくる。これに関しては、今後友人がこの文章を目にする事が万一あるかもしれないので先に牽制しておく。私のせいである。私が人付き合いが苦手なせいであって決して友人が悪いのではない。これが毎回の事なのでまたそうなるのを見越して止めておいた。違うのをやろう。
ラクーナというタイトルを選んだ。中身はハードボイルドなSF作品。前に恐らくセールをやっていて買ったのを、数分だけ動かしてあとは暫く放置していた。何故それを選んだのかは、今読んでいる本がSF作品だから、とかいう如何にも簡単な理由である。
買った当時は冒頭のみプレイしたが、改めてやってみると中々面白いゲームだ。近未来の都市を舞台に、捜査官の主人公は惑星間の戦争の引き金になり得る殺人事件の謎を解き明かすべく奔走する、というのが大まかなあらすじだ。美麗なドットで構成された空間的なグラフィックはシンプルで無駄がなく、横スクロールの単純な操作は、いとも容易く私をゲームに没入させた。
私は、近年の複雑な操作や思考を要求されるゲームより、そういったスーパーファミコン期のような古き良きを感じさせるゲームが唆る。ゲームボーイアドバンス世代の私は、幼少よりドット調のゲームで育ったのでそれが感性に深く刻まれているのだ。ドットは私の故郷(ふるさと)である。

ドットで思い出した。skebというサイトがある。イラストレーターにお題を出し、報酬を投げ銭という形で絵の依頼をするサービスだ。私は最近これに手を出した。
Twitterでフォローしている絵師様の中に、ドット絵を武器にしている方がいたので直ぐに依頼をした。お題は私が推しているキャラクターだ。
今朝、その絵師様による進捗がツイートされ、私はそれを見て、途方もない幸福を感じられたのだ。可愛い推しが、可愛いドットで描かれている…。可愛さのクロスオーバーである。オーバーキルである。これが今日の幸せのハイライトだった。完成が待ち遠しい。この、楽しみながら待つ時間こそが、心を、人生を豊かにさせてくれる。おわる。