あったかみそすーぷ

取り留めのない日常のあれこれ

毒虫

YouTubeを漁っていたら、フランツ・カフカの小説『変身』についての考察動画がおすすめ欄にふと流れてきた。『変身』の文庫本は持っているけれど、序盤まで読んだきり放置していたので、一から読み直すことにした。大体100ページくらいなので、読み終えるのに時間は掛からなかった。

ざっくり説明する。営業マンのグレゴール・ザムザはある朝目を覚ますと巨大な毒虫に変身してしまい、家族から見放されてしまう。一家の暮らしを支えていたグレゴールはそれまで信頼されていた家族から腫れ物扱いされ、やがて自分が存在しない事が家族の為だと考える。その後グレゴールが死んだ事で家族は希望を見出し、新たな人生を歩み始める。というお話である。
個人的に、毒虫のことを勝手にムカデのような物を想像していたが、調べてみるとダンゴムシやカナブンをミックスしたような生き物がイメージとしては近いらしい。何にせよこの作品における毒虫とは抽象的なものなので、好きに想像しても構わないだろう。

読みながらこんな実話を思い出した。植物人間になった男性に起きた奇跡
https://karapaia.com/archives/52319776.html#entry

これも要約するとこんな話だ。

それまで不自由無く健康だったマーティン少年は、病により植物状態になってしまう。数年後に意識を取り戻すが、身体が動かせずその事を誰にも気付いてもらえなかった。視界ははっきり見えているし、周囲の音も聴こえているので外部の情報は受け取れるが、身動きが取れない彼には、周りに自分の意思を伝える手段がない。
彼には献身的に支えてくれる家族がいたが、介護に疲れ切った母親から「あなたなんか死んでくれたらいいのに」と言われることもあった。
考えただけでも発狂しそうだが、それでも彼は正気を保つためにただじっと景色を見つめたり妄想に耽けたりしながら10年近く過ごした。
それから有識者の協力によって徐々に身体が動かせるようになり、自力で車椅子を使えるまで回復した。マーティンさんは今ではエンジニアとして活躍し、家庭も築いて幸せに暮らしているそうだ。良かった。
つまり、マーティンさんもある日突然『変身』してしまった。地獄の日々を耐え抜き、そして奇跡的に復活の『変身』を遂げ、生還した。

『変身』はフランツ・カフカの自伝とも云われている。
実業家の父から跡継ぎとして期待されていたカフカだが、どうしても文学の道を捨て切れない彼は、小説家という“毒虫“に『変身』し、ついに父から認められる事はなかった。
みんなも、そういう経験ならどちらの立場もあるのではないだろうか。
私(自己)がやりたいことをやる→あなた(他者)にとって都合が悪いので毒虫として見られる
あなた(他者)へ対する期待が裏切られる→あなた(他者)のことが途端に毒虫に見えてくる
こんな感じだ。
共通認識で言うなら例えば芸能人の不倫なんかだろうか。人気だった俳優が不倫し世間から干される、というよくある流れだ。

『変身』の物語後半では、家族の方にスポットを当てている。自分達にとって大黒柱である存在が社会的な地位を失った為に、今後の生活を立て直そうと父母娘の三人はそれぞれの仕事を始める。疎ましい存在だった息子は衰弱の末に息絶え、三人は喪失感を覚えながらも安堵する。
私は、この家族が悪だとは思わない。彼らも同じ人間で、苦悩を抱えながら生きている。他者に対して嫌悪する事だって正常な心の働きだ。
こうして家族側の視点も描かれているように、カフカは広い視野で物事を客観的に見ている。
先ほど不倫の話をしたが、不倫とは世間一般に悪である。しかし、実は当事者の間では、被害者のはずの不倫される方が私生活において不倫側から見て元々毒虫であった為に、結果的に不倫をするという行為に至ったのかもしれない。不倫行為を庇っているという意味ではないので誤解はしないで頂きたい。
当事者以外の想像力の欠如した外野がSNSで叩きまくってるのを見ても「でも君たち他人じゃん、本当の事は分からないのに」とただ思う。メディアの思うツボである。本人達の間で起きたトラブルのけじめをどう取るのかは、本人達の間で済ませればいいことだ。

私自身が身の回りの人間関係や、社会的存在における毒虫に『変身』した時、私は私の意思を持ち続けることが出来るだろうか。
大切な人が毒虫に『変身』してしまったとしても、その人を侮蔑せず心から信じていられるだろうか。若しくは、厳しく罰するような態度で向き合えるだろうか。
どうしても解決の方向に向かおうとはするが、それを放棄したがるのも人の心である。

いや、そもそも、すでに私は誰かにとって毒虫なのかもしれない。これを見ている誰かもまた、例外ではない。